生きるOL的健常者としての心得

※特にタイトルにそぐわないダラダラと長いだけの文が始まるよ。



ADHDだかASDだか発達障害だか知らない。診断受けたわけじゃないし別に自分のこと病気なんて思ってなかったから興味なかった。

でも、確実に脳に欠陥はあって、「ふつうの人」ができることを、わたしはできない。それは大人になるに従って明らかになって、子供の頃に感じていた違和感にも納得がいった。「ふつう」が何かよく分からないし、ふつうの人の真似事をしてるのに、やっぱり「なんか変」と言われる。24年間模倣してきたのに未だにわたしは人間になれない、どうしたってなんかやっぱり変なままなのだ。


でもわたしは昔から自分の脳の欠陥に否定的だったわけじゃない。「ーーちゃんって変だよ」って言われるのが嬉しかった。人を笑わせるのが好きだったので、わたしが変なことで人を笑ってくれるならそれでよかった。これがわたしの個性だ云々みたいな胡散臭いこといいたいわけじゃなくて、とにかく、色んな要素が絡み合ってわたしは今、生きるのが難しい。

それでも生きようとは、思ってるんだけど。


小学生の頃から振り返ったって、わたしは絵を描くこと以外、てんでダメだった。勉強はできたけど、ランドセルを忘れて学校に着いて、上履きのまま帰宅し、金曜日に持って帰った給食着をランドセルの中に入れたまま、月曜日にそのまま学校に持っていった。先生に渡されたプリントを親にきちんと渡せたことも、反対に親から渡されたプリントを先生に渡せたことも、ほとんどなかった。それでも宿題は先生の言う通り几帳面にマスを埋めた。

記憶に残っていることがある。小学一年生のとき、先生が「挨拶の大切さ」について話していた。いたと思う。そのとき、先生が「このクラスにあいさつをしたことがない人はいますか」と言って、わたしは手を挙げた。別に、面白いことをしたかったわけじゃない。本当に、わたしは挨拶をしたことがなかった。おはようも、おやすみも、ご飯を食べるときのいただきますもごちそうさまも、いってきますもただいまも、無い家庭で育ったから。(というか、わたしが何度言ってもしないので、親が言わせるのを諦めたんだと思う。加えていうと、わたしは今でもおかえり、ただいまがどっちがどっちだか分からない)そして朝の会で言う「先生、おはようございます」は挨拶だと思っていなかった。みんなで口を揃えて言う、口の運動でしかなかった。

そのとき手を挙げたのはわたし一人で、みんなは「ふつうするでしょ!」と言って笑っていた。楽しかったのでそれでよかった。

小学三年生のときには担任の男性の先生にいつも口答えした。その頃だるいとかうざいとか、たぶんそんな言葉が流行っていて、先生に当てられたときに「知らない。うざい!」と言って周りのみんなが笑ってるのが楽しかった。そんなこと言ってたの、今考えてもわたしだけしかいなかった。

楽しいことが好きな反面、わたしは毎日のように体調が悪かった。寝るときには、いつかの授業で見た戦争の映像がフラッシュバックする。爆音が脳内で鳴り響いて怖くて眠れない。あるときには、テレビで見たお風呂で動けなくなってしまった高齢者が九死に一生を得た話とか、火事で死んだ兄の同級生のことを考えて怖くて眠れなかった。大人になってから、これって病名があったんだと驚いたのは、不思議の国のアリス症候群(だっけ)で、寝る前に自分の体が針の先ほど小さくなったり戦車より大きくなったりした。そのときは恐怖を紛らわすために決まってNHKのグーチョコランタンという番組のキャラクターを思い浮かべた。その頃はもう「お母さんといっしょ」を見る年齢でもなかったし、別にそのキャラクターが好きだったわけでもなかったのに、別のことを考えないとと思うとかならずその映像が頭に浮かんだのを覚えている。

記憶にあることはたくさんあるけど、当の本人だからなにがおかしくて人と違っていたのかをうまく言葉にするのは難しい。周りに「おかしい」と言われたきっかけがある出来事でないと、自分のおかしいところに気づくきっかけがない。

学校では手遊びで注意されるのは日常茶飯事で、クラスのみんなとの団体行動ではよく他のことを考えていて気づけば一人ぼっちになっていたことも何度かある。今考えれば、なぜ先生は気づかない?である。もしかしたら、何度呼んでも反応しないので諦めて置いていった流れがあったかもしれない。知らないけど。小学校のプールは、浅いプールと深いプールの二つがあって、低学年の頃浅いプールの横でみんなで体育座りをしていた。その日は寒かったので(プールの時間だけみんなの頭の上に太陽があればいいのになぁ。太陽があったら暖かいかな。でも、太陽があったら雲もあるだろうな。)と考えていて、みんなの頭の上に太陽と雲があるのを想像していた。ハッと気づいたときにはわたしはそこに一人で座っていて、みんなは深いプールの横で体育座りをして先生の説明を受けていた。そこに走って行ってみんなと合流した。先生にはなにも言われなかった。

今、ほんとに今思ったんだけど、こんなに明らかにわたしが一人置いていかれる状況、ほぼ先生も「諦めていた」んだろうな。


なんか、小学生のことはよく覚えているな。高学年になると、なんとなく周りの真似事ができるようになって、中学生にかけてもそこまで変な出来事はなかったと思う。(それでも周りから見たら変だっただろうけど、ただの陰キャラだった。GReeeeNバンプも知らなくて、ジュノンにもセブンティーンを買っても何が面白いのかわからなかったし、携帯小説もフラワーコミックスもスポンジ・ボブにも興味がなかった。好きな男の子はいたけど、周りの子が恋愛をしてるとき、付き合ってなにをしてるのか知らなかった)その頃の友人からaikoCDを貸してもらったけど、うちに帰っても音楽を聴く道具がなかった。


とにかく中学校は男子がうるさくて、高校ではみんなと離れたいな。と思っていた。そして、同じ中学からは三人しかいかない高校に通った。高校は楽しかった。入学してすぐにかっこいい男の子に告白されて、そしたらイケてる女の子達にチヤホヤされて、彼氏とはすぐに別れたけど一生懸命イケてる女子の真似をした。靴下は長いほうがいい、スカートは短いほうがいい、前髪はアイロンでまっすぐに伸ばして、髪の毛は伸ばしたほうがいい。ネクタイは小さく結ぶのが「イマドキ」なのだ。完全に、掴みはオッケーだった。初めて手にした白いガラケーで、無料ダウンロードしたaikoの歌声を聴いた。「好きな歌手は?」と聴かれたら、「aikoだよ」と言った。「aikoいいよねー」と言われるので、無料ダウンロードで聴いただけでほとんどよく知りもしないけど、「うん」と答えた。高校でもやっぱり「なんか変わってる」、面白いことをしてなくても「面白いね」って言われたけど、みんなで行くジョイフルは楽しかった。

この頃も、約束の時間を守れなかったりおしゃれに興味がもてなかったりしたけど、それで悲観的な気持ちになることはなかった。むしろ、このときは自分の抜けた性格も、すぐになんでも忘れてしまうことも、待ち合わせの時間を守れないことも、なんでも面白く思えて笑ってた。そういう年頃だよね、高校生。



否定的な気持ちを持ち始めたきっかけは、絶対に元彼にある。それはわかってるけど、元彼のせいにして元彼を責めたいわけじゃない。健常者そのもので、親から厳しい躾を受けて育った元彼は、何もできないわたしを厳しく叱った。というか、わたしが間違ったことをするとわたしを酷く軽蔑した。わたしは、最初は嬉しかった。母親にも、学校の先生にも諦められていたわたしのことを、真剣に正そうとしてくれている。そんな人に初めて出会ったから。

彼は、弟が発達障害だったという。発達障害とは言わずとも、「脳に欠陥がある」と言っていた。私にそっくりだったと言った。つまり、わたしも脳に欠陥があるのだと、そのとき初めて知った。時間を守れないのも、約束を忘れて眠り続けることも、ゴミだしの日をいつまで経っても覚えられないのも、冷蔵庫にある同じ食材を買ってしまうことも、人の気持ちがいまいち理解できないことも、トイレットペーパーやシャンプーを切らしているのに何度も買うのを忘れることも、すべて脳の欠陥が原因だったのか。

たしかに、彼はそのすべてをきちんとこなした。こなしたというより、それをするのは普通のことのようだった。健常者と生活をして、約束の時間に間に合うためにどれくらい前から、何を始めるのかを知った。彼は冷蔵庫の中身やトイレットペーパーの在庫を頭の中で管理ができていたようだったけど、それはわたしにはできなかったのでスマホにメモをして管理をした。そして一人暮らしも三年目に到達する頃に、スーパーの肉のグラムと値段を見て、どれくらいの量が必要で、値段は高いのか安いのかを理解できるようになった。それも、彼に教えてもらった。


そしてわたしは、わたしの行動が人に迷惑をかけてきたことを初めて知る。エスカレーターでは片側に寄る。急いでる人の迷惑になるから。待ち合わせに遅刻しない。待ってる人の時間を無駄にするから。道端で突然立ち止まらない。後ろを歩いてる人がぶつかるから。いい加減な身なりで外に出ない。周りの人は見ているから。

そんな当たり前のことを、一つずつわたしに覚えさせた。そして、身につけたことに関しては丁寧に認めてくれた。一人暮らしになって家族とも疎遠になり、躾という教育を受けてこなかったわたしにとって、他人に教えられ、肯定されることはこれほどにない充足感だった。わたしは彼に依存した。初めて健常者の感覚を言葉や行動で示されたことで、数々の間違いに気付く。



そしてわたしは、死にたくなった。ふつうの人間と一緒に生活をしたことで、わたしの欠陥はどんどん顕著になった。わたしはふつうではないということを身をもって実感し、それが人に迷惑をかけているという強迫観念に駆られ、何度も死のうとした。それでも死ぬことができないわたしは、人に迷惑をかけずに生きるために、彼の真似をするしかなかった。わたしを殺そうとする人間に頼るしか術がなかった。一人で、ふつうの人の喋り方を泣きながら練習した。もう何が何だか分からなくて、毎日泣いていた。死にたいという気持ちが強くなればなるほど、彼に縋った。彼はそのとき、わたしの生を繋ぐ唯一だった。就活で「面接官に認められない」経験が重なって、本当にそのときの精神状態は最悪だった。呼吸をすることすら難しく、食事も喉を通らず体重は激減した。寝る前には必ず涙が出て、彼に背中をさすってもらってようやく浅い眠りについた。よく「そんなに泣くのはおかしいから、病院に行った方がいいんじゃない」と言われていた。それが悲しくてまた泣いた。

社会人になってからもそんな日々が続いていたので、わたしは彼の家で生活していた。社会に出ると、この脳の欠陥はさらにわたしを困らせた。会社には健常者しかいない、と思う。この歳になると色んな人が淘汰されて、そんな組織にわたしは残ってしまった。毎日泣いて死にたくなってまで、残る必要があったんだろうか。それでも、わたしが迷惑をかけずに生きる方法は、健常者になりきって、ふつうの会社でふつうの社会人になって、人生を全うすることだった。なんで、そんな、無理しないとできないことしようとしたんだろう。なんか、洗脳されてたんだろうな……




なんか長くなりすぎたのでとりあえず終わり。わたしは今元気なんですけど、社会人になって困るADHDみみたいなとこ書きたいけどこれもなんとなく難しくて、まぁ、うん、なんかわりと大変だよ。今も生きるの難しいけど、少しずつ人生修正していきたい。きっとわたしに向いてる人生ってあるはずなんだよね。それを見つけていきたいです。とくに、サラリーマンって向いてないです。あれは、大人がやる仕事です。わたしはずっと大人になりたくないというか、なれないです。わたしなりに楽しいこと見つけて、生きていきます。病院にはいきません。終了。